2013/02/28

NIKKI『台湾で、1日目』

昨年の11月にはじめて訪れた台湾。
 おやじが生まれて11歳まで育った場所であり、
 爺さんが、現在の師範大学で教鞭をとっていたということもありなので、
 すーっと馴染むことができて、いい旅立ったなぁと感慨していたら、
 100日ぐらいしてまた来ることができた。
 今回は仕事なので、気持ちをピンと伸ばしているつもりです。

 寒い東京からちょっとぬるくてしっとりめの台湾へ。
 初日は雨でしたが、ヤな気はしなかった。
 日本でいうところの春を待つというか、春を呼ぶというか、
 そんな待ち遠しさに満ちた雨です。

 こどもたちはそれぞれに工夫して雨と遊んでいました。
 雨どいから漏れ落ちる雨水を、ビニール袋に受けて溜めっこしてました。
 東京でもよく見る光景なんだろうけど、
 異国情緒も手伝って、ものすごく微笑しく映ったので
 パチリとやったら、ギロリとされた。
 ギロリの目のままこっちに近づいて来たので、ちょっと構えたら、
 見せてみせて(というような感じの台湾語)と言ってたので
 またまたパチリを連写したら、
 父兄っぽい人にギロリとされた。

 国家間の友好関係に関わると思い、そろーっとその場を後にしました。

 初日/食事4回。デザート1回。立ち食い1回。足つぼマッサージ40分。
 

 
 

2013/02/26

NIKKI『ニャンコ先生』

世田谷ものづくり学校周辺でハバを効かすボス猫。
 名前をニャンコ先生と言う。
 堂々たる歩行スタイルに、猫ながら感心することしきり。
 決して慌てずマイペースでこちらに寄って来ては、スネあたりに頭突きをゴン!
 「撫でろ」という要求である。
 で、撫でる。
 するとケツ向けて尻尾を立てる。
 ここも撫でろ! である。
 で、撫でる。
 バタンと横倒しになり、顎を上げて…
 撫でろ!
 
 かなぁり気持ち良さそうなので、しばらく撫で続けると、
 前足で手のひらをつかんで、ガブリとしながら猫キック。
 いててて、「わーお」。思わず声が…
 ニャンコ先生、びくっと立ち上がり、僕から2mの距離に移動してまた横転。
 テメーっていう視線を送ってみるが、
 ストレッチポール体操のように左右にバタンバタン。超余裕。
 すっごい負けた感。

 なんとか勝ちたい。
 あいつのペースに乗りたくない。
 でも勝ち方がわからない。
 
 
 

2013/02/25

NIKKI『東京マラソンの翌朝に思うこと』

昨日は東京マラソンで多くの友人がエントリーし、ほとんどが完走した。
 立派だ。とても真似できない。42.195という数字を見ただけでコタツで丸くなりたくなる。
 みんな僕を誘う。陸上部だったんだから走るの平気でしょ? 
 甘い。というか知らなすぎる。僕の専門は走り幅跳びとハードルだ。長距離との共通点は「走る」というだけで、距離とかスピード感とかトレーニング方法はまるでく違う。いわゆるソッキンとチキンの違いで、まったく別のジャンルの競技と思っていただいてかまわない。
 「ソッキン」と「チキン」。お肉の話じゃないです。わからない人はレッツWiki!
 
 僕は、本当に長い距離を走るのが苦手という域を超えて、ムリなのだ。走り方がわからない。力の抜き方と呼吸法がまるでわからないのである。だからどうしても頑張ってしまって長持ちしないのだ。
 それでも昔から運動をやっていたせいか、人前ではそれなりにできちゃうような事を言ってしまうからタチが悪い。
 「クリさんならなんでもでいるでしょ?」「ま、それなりにね」
 これぐらいは序の口である。
 「クリさん、ほんとは運動神経悪いんじゃないの?」「っざけんな! 勝負するぞ、勝負!」
 アタマやカオのことはどーだっていい。運動神経のことになるとどうもムキになる傾向がある。
 そうやって、一週間後にテニスの勝負だ、ゴルフの勝負だと勝負を挑む。100mダッシュの勝負というのもあった。
 一週間の猶予というのがまたよくなくて、訛っていた肉体を急にフルスロットルにして練習するから、一週間後には乳酸たまりまくって体バキバキでちっとも勝負にならないどころか、前日に肉離れしたこと(テニスの勝負んとき)もある。
 なんだか最近、本当に運動神経が鈍いような気がして、毎日少しずつ落ち込み汁が溜まっていって、もう表面張力でこぼれそうです。

 さて、友人たちはなぜ走るか? 
 きっと反発なんだろうね。
 大学卒業してから50まで、30年弱の間で、それなりに仕事で頑張ってきただろうけど、本当に自分の限界っていうか可能性っていうか、そういうものにチャレンジして自己確認したくなったんじゃないだろうか。
 特にフルマラソンなんて、人の支えはあるものの、走り続けるのは自分ひとり。
 42kmもの距離を走りながら、自分のこれまでの30年間や、その前の20年間も浮かべて…。
 走ることで、走り切ることで、今までになかったちょっとした自信をつけて、まだまだこの先の人生も、って気持ちを獲得できるんだろうな。同時に、競わなくても良いスポーツの心地よさを、ダイレクトに体感できるんだろうな。本当に気持ちいいこと、実感できるんだろうな。
 そんなことをマラソンのマの字も走ったことのない僕が書くのは失礼だけど、昨日完走した友人たちはきっと充実した気持ちで新しい朝を迎えたんだろうなーなんて、羨ましく思っているわけです。
 「いやー、体バッキバキ。もうおっっさんだよ、おっさん」
 その言葉こそが勲章なのです。
 みんな、ほんとうにお疲れさん。
 完走、おめでとう。
 とりあえず、僕は歩ウォーキングからはじめます。



 で、写真は僕のウォーキングコース(週一)、瀬田の交差点です。


 

2013/02/23

NIKKI『おやじの命日30年』

あれから30年も経ったなんて、なんだか不思議な気持ちだなあ。
あのときおやじは55歳で僕は20歳、お兄は24歳で母は50歳。つまり今の僕はあのときの母と同い年で、おやじより5歳年下。
公務員だったおやじと美容室を営む母のことを、しっかり働いてくれるありがたい両親だと感じていた。
パソコンもケータイもない時代、家族団らんの時間といえば居間でテーブル囲んでテレビ観るぐらいだったけど、おやじと観るテレビにはどこか緊張感があった。
おやじの機嫌がよくないときは、基本的にテレビはNG。機嫌が普通のときはNHKと巨人戦が許され、ご機嫌だとドリフと歌番組が許可された。
しかしおやじの機嫌は秋の空のごとくコロコロと変わる。
ドリフを観て、僕が調子に乗ってカトちゃんのギャグを解説すると、「そんなもん詳しくなるより漢字の書き取りでもしとれ」。長島がチャンスで凡打すると「巨人が勝っても負けてもおまえの人生には関係あらへん」。
よくもまあ長島の一打席でこんなにも機嫌が変わるもんだと感心したものだ。
こんな劣悪なテレビ環境下にありながら、誰よりもテレビを観て、ラジオを聴きまくれたのは奇跡と言える。
ビデオなどないから、おやじが寝静まったことを確認してから、ゴールデンタイムにテレビを観られかなったウサばらしに11PMを観て、テレビ放送が終了するとオールナイトニッポンを聴いて思春期力を増大させた。
6年生で睡眠時間は6時間を切り、中学に入ると空が明るくなるまで起きていた。
テレビを観させてもらえない夜はジャージに着替えて教科書もって、「小瀬まで走りに行って、帰りに真ちゃんとこで勉強してくる」と母に告げて玄関をでた。
「テレビの勉強やろ。2時間で帰ってこやあよ」。母親、お見通しなのである。
ちなみに小瀬とは、長良川のことを指し、家から5キロの距離にある。陸上部の僕にしてみると往復10キロというベストなランニングコースだった。
陸上の成績はそこそこだったから、おやじも夜練には寛容で、しかも帰りに友だちと勉強とは感心!と思ってくれていたみたいで、�案外ゴマかすのチョロいもんだな″とタカをくくっていたら、ある日、母親に�おとうさんお見通しやよ″といわれドキッとした。
その真ちゃんも19歳で死んだ。
おやじより7ヶ月前のことだった。

30年目の日におやじのせいでテレビ観れなかったことばかり書くのはなんだが、思い出というのは時間とともに美しく茶目っ気たっぶりな記憶に昇華していくから不思議だ。
したがって、今現在の思いとしては、とっても素晴らしいおやじとの思い出話を書いている気がするのである。

気がつけば50になった僕は、やっぱりNHKと巨人戦以外、ほとんどテレビを観ていない。

2013/02/22

NIKKI『田園調布の古い本屋』

20年来の友人である編集者と、撮影終わりで田園調布をうろつく。
 どの家も自分の未来に描けるシロモノではなく映画のセットのようなものばかり。
 そんな異次元の町にポツリ、味わい深い木枠の硝子扉のある本屋さんを見つけた。
 僕の昭和スイッチが入る。友人も同様に。
 友人はこの昭和の箱に足を踏み入れるために、自分の勤務する出版社の週刊誌を購入し中へと侵入。
 僕もついてく。
 想像通りの老店主が登場し、本と、本を買いにくる人が活き活きしていた時代の話をしてくれた。
 この場所のほかに、田園調布の駅前に出していた本屋の話をまじえながら、
 いかにも「本が好き」という感じの話をしてくれた。
 残念ながら駅前の本屋は10数年前に閉店してしまったそうだが、
 店内奥の台所(ちらり見えてしまった)のさらに奥から、
 駅前の店が閉店したことが記載された新聞の切り抜きを持って来てくれて見せてくれた。
 筆をとられたのは有名な作家さんのお兄さんで、
 とてもせつなくて胸がキュンとくる文章だった。
 何かを無くしてはじめてわかる大切なこと。
 町の人みんなみんな、こどもも老人もご夫人もサラリーマンもフリーターも、
 誰もが平等な気持ちで立ち入ることができる「本屋」というなんてことないけど大切な場所。
 
 お店は戦時中の休業期をまたいで84年にもなる大ベテランだそうだ。
 老店主77歳。その斜め後ろで、
 店主が誇らし気に話す姿に、笑顔で「そうだったね」と綺麗な東京言葉で相づちをいれる奥さま。

 「貴重な話をしていただきありがとうございました」
 お礼を伝え店を出ると、ご夫婦そろって店外まで見送りにいらしてくれた。
 あらためてお礼を言うと、
 「ところでさ…」
 それからしばらく、懐かしい話その2を頂き、
 ももういちどあらためて、お礼。
 「そうそう、こんな話もあったんだよ…」

 僕と友人は、もうしばらく本屋の前でご店主の話を聞いた。
 通りすがるご近所の方たちがご店主に会釈をしたあと、僕と友人にも微笑みかけた。
 
 この本屋とご店主は、単なる商店と商店主ではなく、町の一部であり風情なんだな。
 そう思いながら、予定より600円高くなった駐車料金を払って、
 僕たちはその町をあとにした。


 
 

2013/02/21

オールナイトニッポン博 in 丸の内ハウス & 日記復活です!




約一年ぶりのブログというかNIKKI復活です。
 これまでも、フッカツフッカツと軽々しく口にしていましたが、今度こそ本気で復活です。
 でも、なんで書かなかったんだろ? 書けなかったんだろか? まーいい。過ぎたことだ。
 
 さて、オールナイトニッポン45周年を記念して、新丸ビルの7F「丸の内ハウス」にて、オールナイトニッポン博をやるから手伝ってという依頼が来てトキめいた。
 オールナイトニッポンは僕ら世代の青春のバイブルというか、青春そのものというか、いろんなことで本当に僕らをムズムズさせてくれた、夜の家庭教師みたいな存在だったのだ。
 イベントを前に、ニッポン放送での打ち合わせは、その場所に集った人たちの思い出自慢合戦のようだった。
 70年代、80年代、90年代と、それぞれ育った時代は違うけれど、誰もがそれぞれの『オールナイトニッポンとボク(あるいはアタシ)』を自慢げに語りあうだけで、筆もとらないのに誰もの頭ん中に同じ画を描くことができた。
 田舎者の僕にしてみれば深夜ラジオの向こうに東京があって、東京育ちの誰かさんにはラジオの向こうに自分の知らない東京が見えたりして。リクエストはがきを読むパーソナリティに本気で恋して、胸が苦しくなって、エンディングテーマが流れると、あのコが遠ざかって行くような気がして、片想いという言葉にまた恋して…。バカげた妄想と知りながら、世界中でいちばん切ないのはオレかも的な、ほんとうにおめでたい気分を味わいながらもセンチメンタルとはなんたるかを教えてくれた、それはそれは貴重な深夜授業だったわけです。

 やめよ。泣ける。いや泣く。むしろ泣きたい。
 なので、そんな大切な思いと時代をびしっと敷き詰めた空間に仕上がっていると思うので、丸の内for MENの方、ちょっと覗いてみてもらえると嬉しいです。もちろんfor MEN以外の人もぜひ。

 いやー、これだけ書いただけで長いトンネルを抜けた気がした。
 単純なんです。オールナイトニッポン世代は。